久しぶりに書きたいことが湧いたので
最近、というかしばらく前からVTuberの配信とか見てて不思議に思う事があった。平均6時間程度の配信時間の人がよく「体力すごいね」と言われている。
これが最近までよくわからなかった。確かに24時間ゲームをしながら配信もしてコメントと会話を続ける、とか、e-sports大会を6時間集中し続けるとかだったらまぁわかるのだが、どうやら一般の感覚として長時間ゲームをし続けることは体力を使うこと、らしい。
高校時代のマラソンもどきも2度リタイアしてる程度には体力には自信がないが、ゲームは多分余裕で24時間はできる。これが本当に体力なのかは今までわからなかった。
今読んでるオードリー若林のエッセイにこんな一節があった。
そう思った時、悩むって体力なんだなということに気づいた。
「おじさんになって体力がなくなると、悩むことができなくなるんだ」
近頃番組でスベっても気にしないのは、どうやらメンタルが強くなったのではなくて体力がなくなったからなのかもしれない。
20代の頃、今の自分くらい失敗したことを気にしなければもっと楽しく過ごせていたかもしれないなと悔しくなった。
ネガティブは、あり余る体力だ。
これを読んでハッとした。悩む、つまりは考える事は疲れるんだと、頭を使う事は疲れるんだと。
常に何かを考えてなきゃ落ち着かない、何に対しても疑問を持ち続ける俺にとってはゲームをし続ける事は一定の考えを巡らせ続ける、ちょうどいい"運動"になるんだと。
そう考えると何かあった時に悩みに悩んで病みだすプロセスも紐解けた気がする。多分並行で考えていた一つの物事が急速に回り出す事でそれに繋がってる思考回路の全てが、考えてる全てのことと疑いが、同時に高速で動き出す。
その結果、疲労が限界を越え、異常として、いわゆる病みといえば聞こえはいいが一つの精神異常として形骸化する。走ってて身体疲労が限界を越えると肉離れとかで身体的異常になるのと同じ。
こうやって運動に例えると、普段から毎日フルマラソン走ってるようなものなんだろうなと、そう考えれば体力があるって言われるのもそれはそうなんだろう。
でもどっちかっていうとマグロみたいなもので、泳ぐ事をやめたら死ぬレベルで泳いでるのと同じで考える事をやめることができない。何も考えずに生きれたらどれだけ幸せなのかと、何度も思う。
まぁそうなったらそうなったで、体力も同様に無くなって少し考えるだけで頭痛に襲われるようになるんだろうけど。
でもちゃんとおっさんになって、体力が衰えれば、こんな頭を悩ませてないで、落ち着いた人間ってやつになれんのかな。なってみたいけどね。
まぁそんな年老いた頃を想像するより明日を生きるビジョンを持てってな。