駄文置き場、則ちゴミ箱

書きたいもの書きます

裏と裏

万物には表と裏があるとされる。いやちょっと言いすぎたかもしれないが、まぁでもあながち間違いでもないくらいには表と裏があるとされるというか表と裏が作りたがられる。人の性格なんてのも最たる例で、二面性がーとか裏表のあるーとか、そもそも形にできないものをたった二面で、そしてそれぞれを排他的に見ることなんてできやしないのに表裏という言葉で表される。

そもそも裏って何なのかってとこから。わかりやすいように10円玉でも見てみよう。こいつの裏面は?正解は10って書いてるほう。そもそも10円玉には裏表を誤認しやすいっていう罠があるが、これは定義があるから正解がある。じゃあ定義が壊れたら?例えば10円玉の10と書いている方に「表」と書いてあるシールを貼ったら、この10円玉の裏はどちらだろうか?正解は多分、「判定者の認知差による」だ。判定者がより上位のルールとして定義を優先するなら10の面だし、その場における再定義を優先するなら平等院鳳凰堂の面になる。まぁつまり、二面体のどちらが表かなんて、誰かが勝手にラベル付けしただけなのだ。蛾によく似た蝶に蛾の名前が付けられたみたいに。

ただ、物の裏側を考えるってのは大事なことだったりする。例えば光の逆は闇だが、光の裏は影。月影が月光を表すように、影は実は光も表す。何が言いたいかって言えば物の裏側を考えることは物の本質や見えない面を考えることになる。

例えば正義の裏側を考えればそこには必ず理由が存在する。本能だとか承認欲求、本人のエゴにはたまた利益や悪だとか。よく偽善がどうこう話は上がるが、どんな善でも、相手を助けるという行為そのものがエゴでありその善行を為すことに達成感を得ることが目的であると言ってしまえば偽善でない善など存在しない。あとは長所と短所、こいつらを考えると大体長所の裏には短所が、短所の裏には長所が潜んでいたりする。この辺を考えるのは昔から割と得意だが、まぁ今話すようなことでも無いだろう。

 

…んで、ここまでが実は長い長い前座で、ここからが本当に考えたいこと、人の裏側ってやつ。多分こんなものを読む物好きな皆さんなら周知の事実かと思うが、俺はVTuberの沼にハマっている。まぁこの界隈にいると嫌でも耳に入ってくる単語が「中の人」ってやつ。ファンからもそうだし、記事やらまとめサイトやら、いろんな方向から飛んでくる。この単語がそもそも好きじゃないのだが、一応ある程度の自分の解は持っている。

そもそもVってのが新しいコンテンツかつまだ特殊な存在のため、活動者のスタンスがバラバラであるのが特徴としてある。例えば中の人を公開している人もそこそこいて、MZMのアンジョーとコーサカはそれぞれ歌い手のun;cと高坂はしやんであり、確かコーサカの方が以前に「とんねるず矢島美容室の関係」と言っていたはず。他にも例えば薬袋カルテと〼医、彼女は自身を「外の人」と呼称するように、Vの子を自身が内包する創作物としている。あとはしぐれういや竹花ノートなど、そもそも作家さんなどがYouTube活動をするうえで、アバターとして、配信方法としてVTuberを選択しただけというタイプもいる。顔出ししない実況者が名前を変えずにVとして活動し始めた、まぁ活動の幅というか交友関係や視聴者層を拡大しただけの人もそれに近いか。

んで、問題は中の人を公開していないタイプで、実際に初期にはDiscord事件としてかなり問題になった事例でもある。もちろんさっきまでに挙げてたタイプに当てはまるやつもいるが、キャラクターを演じる人、自分の中に存在するキャラクターを投影する人、設定を持つキャラクターを借りて活動する人、ただ活動の形としてVを選んでいる人、そもそもYouTube活動そのものを作品にする人、ただただ仕事としてやっている人など、まぁ大体このどれかには当てはまる気はするんだけど、これだけスタンスの違うものがひとつのラベルにまとめられているために問題が生じたりする。

俺の解は単純で「なるべく野暮なことはするな」に限るわけで。わざわざ公開されてないものを探したりなんだりは自分からはしない。わざわざTDLでミッキーの首を取ろうとするような真似はしない。気付いたとしても、それは別物として愛する、前の子も忘れず、今の子を今の子として見る。正直難しい話であるが、努力でなんとかする。自分のために。

ひとつ例示をするが、正直無粋な話なので見たくないような人間はしばらく飛ばしてほしい。にじさんじ所属の加賀美ハヤトについて、多分少しニコニコをかじったことがある人なら誰しもが気付くであろうが、彼が歌い手タラチオと同一であることはまぁ自明なことであろう。彼の場合だが、俺は完全に分かれていると感じた。多分鍵は一人称、わたくしを一人称とする加賀美ハヤトと俺を一人称とするタラチオ、RPというよりかは、存在を一人称を使って分けている、そんな風に感じた、まぁ盛大な勘違いの可能性も否定はできないのだが。どちらの動画も見る俺としては、例え声が同じでも、例え肉体が同一であっても、そんなことは関係なく、この2人は表裏一体ではなく、それぞれが愛すべき個なのだと、そう感じた。

実を言えば俺も少しは創作をかじる人間で、少しは演劇をかじる人間なのだが、俺にとって演じることは、自分の中に飼っているその人間を投影することだと思っている。多分それもVについての解釈に影響しているんだとは思う。とはいってもこの考えというかスタンスも多分危なくて、自分の中にたくさんの人間を飼っている、それぞれが勝手に生きた結果を投影する、これをめちゃくちゃ重症化させた先が多重人格ってやつだと思う。裏表だけじゃなく、無限の多面性が出来上がっていく。そうすると最終的に、表がどこにあるのかがわからなくなる。本当の自分自身が何なのかがわからなくなる。

なんて、こんな駄文もこの程度でいいだろう。駄文を書きたくなるってことは誰かに聞いてもらいたいって目的があるんだろうけど、果たして果たされるのか。

ついでに、最後に、皆と俺に宿題、期限は設けないから一生、

俺は、僕に対して表か裏か、どっちだろうね?