駄文置き場、則ちゴミ箱

書きたいもの書きます

フリーター、家を借りる

久しぶり、死んでたよ。

近況報告だけしとこうかなと思ったので筆を取った次第。まぁ某ドラマオマージュの記事タイトルで全て済んでる気がするんだけど。

まぁ簡潔に話すと単位足りなくて留年して、9月で卒業、そっから居酒屋のバイトして今から札幌に引っ越す、定職はまだ見つかってないって感じ。

いや第二新卒みたいな感じじゃあかんかったんかと言われるとそれはそうなんだが、内定取り消しがだいぶ心に来てたので就活に踏み切れんかった。まぁそれでまた単位落としても本末転倒だなって思ったのもある。あと9月卒業のムーブがなんもわからんかったのもある。で、なんとか9月に卒業したんだけど上記の理由からバイトもできんかったし就活もなんもできてなかった。そこから近くの居酒屋でバイトし始めたけどそれはそれで体力がなんも残らんくて仕事はともかく就活はできんかった。いや言い訳にしてるだけって言われるとなんも言えないんだけど。

っていう状況のせいでまぁまぁ心もだるいし環境変えないとモチベも体力も無理だなって思った、あと知り合いはほぼいなくなったとは言え失敗した大学の近くに住んでるのもきつかった、ほぼ確実に函館で働き口を探すのは業種的に無理、ってことで拠点を札幌に移して札幌に絞って就活をしようと決めて今に至るって感じ。

明日不用品回収が来て明後日退去しなきゃいけないけどなんも準備が終わってない。無理。しんど。いや全部自業自得なんだけどね。

この文章を目にするような人は関東圏が多かった気がするけどそういうわけなんで札幌に用ある人は構ってくれればと思います。

心がヒリつきを求めている

ギャンブルが好きだ。心をヒリつかせ、頭を焼き焦がし、天に命を預ける。そんな賭けが大好きだ。

カードを捲る、賽を振る、ゲームにおいてもその瞬間が大好きだ。

ハイリスクハイリターンな手が大好きだ。

そんな「勝負」が好きなのだ。

……が、俺は競馬やパチンコの類に否定的だ。

きちんと学び、あまりに運に見放されなければ多分収支がプラスになる程度にはできるとは思う。が、やらない。

なぜか、理由は簡単。これが「勝負」じゃないから。勝ち負けがあると言っても勝ちと負けが同時に存在しないから。つまり、相手がいないのだ。そうなれば心にヒリつきがない。確率を待ち続けるだけで瞬間的な頭の処理が無い。

となるとこの日本じゃレジャーでしかこの体験ができない。なので俺は「賭け事をしない」人間になる。クリーンなようでクリーンではない。

じゃあどういうギャンブルが好きなのかと言われれば、ポーカーとか、麻雀とか、そしてカードゲームやTRPGもそう。

重要なのは相手がいて、考えなきゃいけないこと。まず実力がある。そしてその実力を心理戦で揺さぶる。それをひっくり返したり、完全に拮抗した実力を分かつのが運。

それこそが勝負。俺が好きなギャンブル。

でも、残念ながらレジャーのギャンブルじゃ失うものがない。リスクがない、または少ない。そのせいで心理戦が薄いことが多い。威圧しても適当に乗ってくるんじゃブラフにならない。そういう意味では賭け勝負にも興味はある。残念ながらできないけど。だからどうにかこのできないリスクをリスクとして重み付けする方法を探っている。無さそうだけど。

誰かこの心をヒリつかせてくれるような勝負をさせてほしい。そう願っている。

バカと天才は紙一重

世の中はバカばっか。日々俺はそう感じている。

ふと思う。バカとは何か。

例えばプロのスポーツ選手。彼らは大体バカのレッテルを貼られているわけだがそれは本当にそうだろうか。プロの勝負の世界で戦っている彼らが本当に思考能力が無く肉体能力だけで勝っている、なんてことがあるだろうか。

答えは多くの場合否だ。彼らは基本思考能力でも常人以上のものを持っている。特に個人技においては。もちろん監督やコーチに頭の部分を全て預ける選手もいるだろうが、それは少数派のはずだ。

じゃあ何故彼らが馬鹿のレッテルを貼られるのか。答えは簡単で彼らは学業や勉学を捨て、すべてをその生業とするスポーツに捧げたから。それで彼らはバカと呼ばれることになる。

ということは、だ。世の中バカと呼ばれる人間は「思考能力が劣っている人間」ではなく「学が無い人間」なのではないか、となるわけだ。

だがしかし、世の中誰もかれも大卒資格のために大学に通う時代。その時代においてバカばっかなのはいくら私文で男女の営みばかりを学んできた人間が多くても成り立たない。ということは「学が無い人間」と定義したものにもう一個奥があるんじゃないかと。

そこで思い当たったのが一人の配信者。名前は伏せるが彼女はまぁバカだ。勉学はまぁ高校中退レベルくらい。発言はぶっ飛んでるし支離滅裂。自分の発言が5秒後には理解できなくなっているなんてこともザラだ。でも俺は彼女は天才だと思っている。彼女のポエムはまぁもちろん自他共に認める現行黒歴史ではあるのだが、あの言葉は、あの世界は俺の頭からは出てこない。ゲームにおいてだって、何故かはわからないがハマったときのプレイはめちゃめちゃ上手いというかきちんと刺さる。

で、ふと気付いた。その正体は「母国語力」じゃないかと。

西洋人が名前に差が無い為に蝶と蛾の区別が付かないように、日本人が太陽を橙に塗るように、名前を知らない”未知”で溢れる世界は言葉を知らない人間でしか見ることのできない世界かもしれない。自分の出力した言葉が自分のイメージと違って破棄されることもあるかもしれない。言葉にして思考を整理することができないだけで、その思考が天才的なものだったら。『この辺にボール来たらドーンしてバーンよ』がとてつもない計算の果てに辿り着いた結果を言葉として出力することができないだけだったら。まぁ説明が付く。

CoCとかいうTRPGではキャラクターにいくつかのパラメーターを持たせるのだが、INT(Interigence:知性、思考力)のパラメーターは閃きに使うのに対し、EDU(Education:学力、教養)のパラメーターは<母国語>の技能に直結する。あぁなんだ、こんな身近に答えはあったのかと。

つまりだ。バカにつける薬は無いというが、バカの本質が「母国語を入出力できない」であるならば、バカを治すための勉強をしように教科書を読めないんだからそれまでだ。だがバカが「母国語の入出力ができない」だけで「物事を考える能力」とは別物だとするならば、もったいない。おそらく教養から来るものであるところの国語力は鍛えられるはずなのだ。であればINTが高くてEDUが低い人間が見えている世界が違うのならば、彼らの世界を想像して彼らの世界の未知を既知にしていかなければならないのだ。

別にこんな社会問題への言及をするつもりではなかったのだが気付いてしまった以上書くことにするが、日本人にバカが多い気がしているのは単に諸外国について俺が無知なだけじゃなく、絶対数としてそうなんじゃないかと思ってきた。その原因は1クラスあたりの教員数問題。同じ世界を見ようとしない限り国語力は伝えられないんだから。

脱線したのを戻すと、ここで大事になるのはINTとEDUが別だということ。つまりバカと天才は紙一重なのではなくバカと天才はまったく別の話なのでバカで天才なやつもいるということだ。

だから日本語読めよカスとあしらうのではなく日本語を読まなくてもいいように何らかの対処をしてやるだけで可能性がめちゃめちゃ広がる。最近TRPGGMするときとかは無意識に気を付けてたけど多分そういうこと。

まぁでも逆を言えば考えられもせず日本語も読めない奴もいるんだよな。どうしようもないというか、ネットで適当にガイドラインとか法律も読まずに誹謗中傷して訴訟されるやつとか。こういうアホが本物のバカなんだよなぁ。散ってくれ。

才能をメスで掬い取れたらやってしまってたかもね

物事には向き不向きがある。そりゃそうだ。人間は十人十色で得意なことも苦手なことも千差万別。だから物事に対して向き不向きが存在してしまう。

でも、向き不向きと好き嫌いは必ずしも一致しない。好きなことを向いてないのに一所懸命やり続ける人もいれば、稼ぎのために好きでもない向いてることをやらされる人もいる。

で、ここからが本題で自分語り。俺はかなり向いていないことを趣味にしがちだということ。まぁまぁクソみたいな生き方だなと思っている。まぁ元を考えると人間に向いてないとは思うんだけどそれは一旦置いておく。

一つずつ見ていく。趣味というか習わせてもらってたことだけど英語。というか語学かな。今でも語源を辿ってったり同じ言葉が例えばラテン語からどういう流れで広がってってどう変化してったのかとか、日本語化しているカタカナ言葉がどういう言葉から発生したのかとか、そういうのを考えるのは好きだ。ただ、記憶力がゴミなのとコミュニケーション能力が終わっているので人と会話をしようとすると英語がパッと出てこない、というか日本語も出てこない。終わり。

次、水泳。まぁ泳げるほうにはなった。が、そもそも度重なる受動喫煙で肺がゴミカスになってるので肺活量が弱め。極めつけは耳を手術して形が変わった事で耳の中が冷えると強烈な眩暈を起こす後天的カナヅチになった。本当に終わり。

あとはバスケ。一応曲がりなりにも中学三年間やってたわけでスポーツの中では最も好きなわけだけど。ここでの不向きは俺の空間認識能力の低さ。もちろん運動神経の悪さもあるんだけど、それ以上に。昔からそうだけど、ボールがどこに落ちてくるかとか、振ったバットの先端がどこに行くとか、そういうのが全然わからない。訓練すれば身に付くかもと思ったが、3年バスケやってもリバウンドのタイミングがわからなかったので多分そういう何かが欠落してると思ってる。あと指が太くて短けぇ。

部活動でいえばあとは放送なんだけど、放送に関しては唯一天職ではある。ただし一番好きな「動画編集」が世に需要が無い事を除いて。世間が欲しがるのは「動画制作」。誰かの考えたアイデアに沿って誰かが撮った映像に誰かが作ったイラストを添えて……なんていう人に頼った、誰でもできることは異様に上手くても求められない。そのクオリティはそこじゃないとこに欲しいから。俺もそう思う。だから俺は動画編集に向いてるけど動画編集は世の中に向いてない。

あとまぁ趣味として出せるものは料理とゲーム。ゲームは細分化しなきゃいけないので先に料理。料理に関しては味覚と嗅覚は人より優れていると思っているのでそこのセンスはある。ただし不器用。なのでレシピ通り作る分には経験値あれば俺よりみんな上手く作れるよ。マジで。謙遜とかじゃなく毎回そう言ってる。

で、ゲーム。これを書こうと思ったきっかけでもある。知っての通りゲームは大体好きなんだけど特に好きなものをあげるならRPGTRPGFPS/TPS、音ゲー、あとはTCGとポーカーあたり。それぞれ見てく。

RPGは…まぁ正直自己満足の世界でどこに向き不向きがあるのかはわかってない。強いて言うなら長時間できるのと理解力があるので向いてるほうなのかもしらん。

TRPG、人生ともいえるくらい好きなコンテンツなんだけど向いてるかどうかでいうと向いてないと思う。なんでかって言うと、コミュニケーションが苦手で、人の気持ちを考えるのが苦手で、そして正解を追い求めてしまう完璧主義者だから。この辺は長くなるのでまた今度にしようとは思うけど、簡単に言うとTRPGの本質ってコミュニケーションで、ルールはあるものの正解とかはなくてその場の納得を求めるべき遊ぶなんですよ。それが苦手なので俺はこのTRPGという遊びに向いてない。

FPS/TPSもまぁまぁ好き。APEX,VAROLANT,OW2,ガンエボ,スプラ辺りは現行でやってるといえるくらい。でも不器用で反射神経が弱くて目も耳も悪くて筋肉もない俺は死ぬほど弱い。まぁ弱い。ただし脳だけが上手くはたらく。チームでの動きとかどう戦略立てればいいかとか。なのでなんとか戦えてしまう。しかし戦力は味方次第だしキッズとバカしかいない界隈にその戦略が伝わるor指示に従ってくれる人はほんの一握り。終わりだよこんなん。こういうゲームをやると全て味方次第になってしまうのはこういうところ。絶対に向いてないからFPSというかオンラインゲームをやめろ。

音ゲー、前述のとおり反射神経が死んでるのと指が短くて太いので何もできん。終わり。

TCG、運が無いのと思考の短距離走が苦手なので下手クソ。

あとはポーカー。ギャンブル全般好きだけど主にテキサスホールデムが好きでたまらない。ただ運がない。だからオールイン連打のバカに負ける。やってらんない。あと多面すると多分ポーカーフェイスが苦手なので弱い。

というわけで俺が好きなことをやるには「指を細く長くして」「コミュニケーション能力を得て」「反射神経をよくして」「天運を身に付ける」ことである程度解決するらしい。とりあえず生まれ変わるところから始めようか。

まぁ向き不向きはあれど、向いてないことをやっちゃいけないのかと言われればNOなんだけどね。好きこそ物の上手なれとはよく言うが半分嘘で半分本当。才能があろうがなかろうがやらない奴<継続してやれる才能のないやつ<継続してやった才能のあるやつ。なんなら継続してやってる才能のない奴はやり始めの才能の塊に叩きのめされることすらある。それくらい才能ってやつは残酷で、不可欠。

自分に向いてることって何だろうなって考えても何も思い浮かばない。強いて言うなら動画の投稿者とかなのかもなとは思うけど。でもその素材が無いんだなこれが。あとそれで食えるようになるための初動の波乗りに必要な運がない。

ホントしんどいなと思いながら、今日も好きなことだけやって生きてる愚か者の戯言。

観測者

人に見られるというのも色々と考えもの。俺は人の視線が苦手だ。人に見られていると、笑い声が聞こえると、それが自分に向けられた蔑みに感じてしまう。関わりのある人間が減ってそれも無くなってきたけど。ただし舞台上では別。劇でも朗読でも発表でも、自分のためだけの舞台だと自己暗示して登壇するからだ。

まぁ今日したいのはそういう視線の話ではなく、閲覧数の話。このゴミ箱ですらまぁ時々閲覧数が付いている。はてなブログの機能としてアクセス解析ができるので覗いてみれば4/22なんかは3回ものアクセス履歴があった。まぁその日このゴミ箱をブックマークしてまで覗いている引っ越し前日でほぼ何もない状態で暇だった人がいるらしいのと相関がありそうではあるが。

このゴミ箱ですらそうだが、何かしらを創作するというか、出力して、公開する、発表するということは観測者が存在して初めて意味が生まれる。まぁ実際には壁打ちとか自己思考整理みたいな場合もあるから必ずでは無いんだろうけど、少なくとも発表物としての意味ではそうだ。最近だと発表者は観測者をどんな形でも視覚的に情報として得ることができる。だから閲覧者数が0の生放送なんかやってると非常に辛いものがある。それでもアーカイブは残るし誰かひとりでもそれを求めてくれる人がいるのであれば、それが例え自分自身でも、継続する理由にはなるのだが。まぁ不定期でやるって言って丸1年何も動かさなかった挙句まだ再開もしていない某企画については一旦目を瞑っていてくれ。何とかしたい気持ちはある。

アクセス数、再生数、販売数、来場者数、同時接続数。観測者を統計的に数える指標はいくらでも存在する。そして、人間は、特に日本人はこの数字が大きい物に集まる習性がある。見えるようになって、いやなってしまったことで、勝手に観測者が数字だけで判断して、世の格差が大きくなった、これが現代社会の在り方なのは誰も否定できないと思う。

で、この”勝手にコンテンツの内容ではなく数字で評価するやつ”。こいつがなんやねんってお話。それそのものが悪いことかとは断ずることはできないが、それをわざわざ活動者に言うな。

俺の推しは確かに同箱内で見ても登録者数も少ないし同接も少ないよそれは事実、でもそれは当たり前じゃん。専業じゃないし本人がこの安定しない職業をメインに据えたくないって思って依存しないようにしてんだから。配信頻度もそんなに多いわけじゃないしコンテンツも同時視聴とかの人を選ぶものやってたりするし。

それをわざわざ本人に伝えんなや。お前は何様だ。比較する必要があるか。

一応言っとくがYouTubeで同接100人いるって相当すごいことだからな?それを上の方見たからって少ないとか適当言ってんじゃねぇよ。博物館で100カラットのダイヤ見たからって他人の5カラットのダイヤの結婚指輪に「あwそれ何カラット?5?wまぁそんなもんかwww」って言ってるのと同じでダセェし誰だよ感。

というだけの愚痴。正直PV数出して深淵を覗くとき深淵も覗いているムーブしたかっただけ。

人生にリセットボタンがあるならば

俺は割と川柳やら俳句、短歌なんかが好きだ。別に歌人ってわけじゃないが普通に事柄を考えればなんとなく五七調で表現できるくらい。

思い出せる中では、小学校低学年か中学年で詠んだ「雪だるま 一人でできるにらめっこ」が最も古い俺の詩だろう。ガキの頃から変わらんなコイツ。

高校のころは国語教師の計らいで古文形式の短歌コンテストみたいなのをイベントでやってて、一応常連になるくらいには載っていた。まぁ内容が内容だけに詠み人知らずとして匿名掲載とかいうおもろい状態だったんだけど。ちゃんと思い出せないけど上の句が学祭の花火綺麗だなみたいなので下の句が「隣に君がいればいいのに」みたいなの。そういうぼっちで彼女いない歴=年齢みたいなネタで書いてた。まぁ事実なんだけど。

今詠むなら「打ち上げて終わりを知らす火を見ても差し出した手は冷え切ったまま」とかかな。古文覚えてないから現代語でしか書けないけど。

そんな俺が数年前から頭を悩ませている上の句がある。それが「人生にリセットボタンがあるならば」。多分初出は俺じゃないと思うけど、いつ頃だったかふと思いついて、そのままずっと下の句が思い付かない。正確には思い付いては否定し、思い付いては拒絶し、思い付いては受け入れられないでいる。

まずリセットがなんなのかって話になる。強くてニューゲームかもしれないし、全て忘れて何度も同じことを繰り返すかもしれない。はたまた、転生を指すのかもしれない。そしてこのリセットボタンは?ファンタジーな話だから物理的なボタンだとしよう。そのボタンについてどこまで自分は知れる?押したら何が起きるのかどこまで想像できる?そのボタンに対する対価は?そして、誰が押す?

もちろんこれらを考えて、自分なりの答えを出すのが上の句を与えられた短歌の詠み方であり、面白さだと思う。でも考えても考えても、答えが出ない。理由は簡単、自分の今までの人生をもう一度なぞりたいと思えないから。変えるべき、変わるべき点はあれど、俺は俺にしかなれないから。もし俺の失敗というミクロではなく「人生」というマクロを変えたいなら、生まれてくる親を変えるところがスタートラインだから。

だからきっと、人生にリセットボタンがあるなら、あってしまったら、俺はそれを前に逃げなきゃいけない。「押される前に首を括ろう」。きっとこれが俺の答え。でもこの答えを認めた瞬間、俺に残された数少ない自己肯定を否定で塗りつぶすことになる。自分にかかった、かけた死ねない呪いとの矛盾への苦しみが大きくなる。だから新しい答えを探す。どこにもなくても。

文章にして初めて気付いたけど、多分この下の句を探すことが俺にとっての「自分探し」なのかもしれない。知らんけど。

締めも思いつかないから多分発想元になったであろうkemuさんの人生リセットボタンの歌詞でも引用しとこうか。

”僕のいない世界こそきっときっと答えと思ったがどうでしょうね?”

自分の言葉ってなんだろうね

 ふと、何の前触れもなく昔のことを思い出した。腐れ縁の、相棒みたいなネッ友がいて、そいつのことが大好きで大嫌いな、そういう女がいた。なんであんなに大嫌いなのに仲良くしていたのか、そういうのも正直わからんし別にこれらの関係に恋愛感情も関わってなかった。

 その女は確か2個下で、まぁ若干田舎くらいのところに住んでて、あとは家庭環境が終わってる、あとは強いて言うならクソ男とかヒモに引っかかりやすそうな、そういう女。の割には強かったけどね。正確には強いというよりは痛みを感じられない、みたいな。まぁそういう女。俺も友達も終わってる人間なので類は友を呼ぶようにその周りは大体終わってる人間。一人くらい例外もいた気がするけど。

 俺もその彼女と、まぁまぁ話はしてた。何度か遊んだことくらいはある。まぁ話をしてたのもスカイプの時代だしログも残ってない。だから思い出したと言ってもうろ覚え。

 大抵は友達が人間性終わってるからどうにかしてほしいだとか、離れるべきなんだろうかとか、そういう話の仲裁役にされてただけ。でも一足先に生まれてたのもあってたまーに人生相談みたいな話をしてた。でもって彼女が基本物事に反発するのとか、俺が理詰めで歴史やら先人やらエビデンスのある話に持ってくのとか、そういうのが原因で話がいつの間にやら哲学的な方向に帰着していくことが多かった。まぁ一種のコミュニケーションエラーだわな。

 そんな中である日言われた「君の言葉は誰かの言葉が多くて君の言葉じゃない」ってのがなんとなーく記憶に残ってる。別にこれに関して大きく否定したいわけでもない。その時返したのはたしか「物事に正解は無いから、より普遍的な解の例として学者や歴史を参照している」みたいなことだっけな。こんなこと女の子に言う奴は絶対に生涯独身だからやめておけ。

 で、思い返してみて、少なくとも間違ってはいないなとかクソみたいな返しだなとか、そもそも会話が終わってんなとか、色々思うことはあるわけだけど。人間に自分の言葉、自分の意志なんてものがあるんだろうかという疑問が残った。もちろんみんな自分自身で思考して言葉を紡ぐんだが、果たしてそれはオリジナルなのか、ということ。

 君たちはどうやって言葉を学んだか。親から学び、教科書から学び、先人から学んだはずだ。結局はその言葉をどうやって発するか、どう使うか。それらがオリジナルであるはずはないが、自分の意志を持って、自分の思考を持って発言する言葉は、自分の言葉足りえるのではないか。

 オリジナルとか剽窃とかオマージュとか盗作とか、その辺は一時期専門みたいなものだったのできちんと学んでいるが、結論から言えば答えはない。リスペクトがあるか、適切か、個人的にはきちんと思考した結果が重要な気がしている。

 まぁただ思い出しただけの話で取り留めもないしオチもないんだが、折角なので他人の言葉で締めようと思う。「我思う、故に我在り」と。